発動機船  明治21年に「北上丸」就航

 私たちの暮らしは、いつも川とともにあった。川は洪水を起こす一方で、土地を肥沃にして作物を実らせ、地域を結ぶ交易の場となり、時には戦いの場ともなつた-----。

 稲作の始まりから朝廷の東征へ
 北上川流域で水田耕作が広がったのは、古墳時代に入ってからとされる。流域における弥生時代の遺跡に、稲作に関係する出土品は少なく、古墳とともに発見された住居跡から、穀物を蒸すときに使用したと思われる土器が出土しているためだ。
 8世紀に入ると、大和朝廷による東征が始まった。宮城県多賀城市の多賀城は、朝廷が8世紀初頭に築いた東北経営の拠点である。当時、胆沢地方ではアテルイを首長とする蝦夷が東征に対抗したが、名将・坂上田村麻呂のもとに破れ、田村麻呂は延歴21年(802)、北上川と胆沢川の合流点に胆沢城を築城。次第に勢力を北上させていった。

 奥州藤原三代
 平安時代の中頃には、朝廷の支配力が弱まり、地方の豪族が力を持つようになった。北上川流域を支配していた安倍一族は、永承17年(1062)の前九年の役により厨川柵(現・岩手県盛岡市)で源頼義らの征討軍に破れるが、応徳4年(1087)の後三年の役で、安倍氏の血を引く藤原清衡が出て、岩手県平泉を拠点に流域一帯を治めるようになる。以後、基衡、秀衡、泰衡とおよそ100年に渡って藤原氏が政権を握り、平泉に当時、地方豪族が築いた文化としては最高のものといわれる華麗な黄金文化を築いた。

 交易ルートから軍事ルートへ
 鎌倉時代から江戸時代までの約400年は、戦乱のために政治も不安定で、北上川は交易よりも軍事的な面での役割が大きかった。
 藤原氏の滅亡後、岩手県の平泉以南の北上川流域には、関東から地頭が入り、中世の宮城を代表する領主となっていった。なかでも現在の岩手県南から宮城県北部、沿岸一帯を支配していた大領主が葛西氏。その葛西氏も秀吉の天下統一の元に破れ、治めていた北上川流域の領地は、のちに伊達政宗のものとなる。同じころ、北上川上流では、南部本家を相続した南部信直が秀吉に盛岡域の築城を許され、北上川と中津川の合流地に突き出た丘に建築を始めた。

 新田開発と河川改修
 江戸時代に入ると、南部・伊達両藩は、稲作が大きな財源となることから、北上川流域の荒れ地を次々に水田に開拓していった。それに伴って造られた堰の1つが、岩手県の胆沢川から引いた寿安堰である。開削者は伊達政宗の家臣で、キリシタン信徒の後藤寿庵。外国人宣教師に学んだ新技柄を取り入れた、当時としては画期的な堰だった。
 また、藩内で収穫した米を江戸へ送るために再び北上川の舟運が重要視され、盛岡・仙台両藩では、舟運の便を図るための河川改修工事に取り掛かった。なかでも政宗の家臣・川村孫兵衛重吉によって寛永3年(1626)に完成した工事は、宮城県の追波湾に注いでいた北上川の河口を石巻に付け替えるという大掛かりなもので、これにより、石巻には岩手県盛岡からも船が下るようになり、北上川の舟運は飛躍的に発展した。

 川蒸気船の登場と舟運の衰退
 明治時代になると藩政が廃止され、北上川は国によって管理されるようになった。明治12年には石巻〜一関間に初めて川蒸気船が就航し、賑わいを見せたが、舟運は藩米輸送の廃止や金納制度の導入で積み荷を失い、急速に衰退。明治24年の東北線の全線開通が追い打ちをかけた。古来からの北上川舟運は、戦後も石巻地方で続いたが昭和29年を最後に幕を閉じた。

 洪水との戦い
 北上川は流域に多大な恵みをもたらす一方、時には人々の生命を奪うほどの洪水を繰り返してきた。北上川の治水対策が本格化したのは、昭和に入ってからのこと。昭和22年のカスリン台風、翌年のアイオン台風による北上川全域にわたる壊滅的な被害が、治水と経済振興を目的にした北上特定地域総合開発計画(KVA)を具体化させた。これにより、大規模な河川改修とともに、五大ダム(石淵・田頼・湯田・四十四田・御所)の建設、一関遊水地計画などが進められ、1960年代からは北上川流域における洪水の被害が激減した。

 松尾鉱山からの鉱毒水
 戦前から戦後にかけては、北上川は東洋一の硫黄鉱山とうたわれた松尾鉱山(岩手県松尾村)から流出する鉱毒水によって、強い酸性を示す死の川と化した時代もあった。
 水質は、昭和47年の松尾鉱山の閉山後、建設省、環境庁、通産省で組織された「北上川水質汚濁対策会議」による処理事業により、次第に回役。昭和48年になって、ようやく盛岡市の北上川でヤマメやアユが釣れるようになった。
 再び清流となった今も、中和処理場は休むことなく運転され、今後も年間およそ10億円もの巨大な処理費をかけて半永久的に続く。ちなみに松尾鉱山の開発は北上川の流域面積のわずか1%以下にすぎない。川に対する人間の利己的な行為の代償は大きい。


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